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あなたは、メソッド演技法という言葉を聞いたことがありますか?
最近だと、残念ながら連載中止になってしまった漫画「アクタージュ」でも取り上げられていました。

今回は俳優たちの演技方法の一つである、「メソッド演技法」について書いてみたいとおもいます。
メソッド演技の原点はロシア演劇界のコンスタンチン・スタニスラフスキーの演技理論に影響されています。

スタニスラフスキーの演技理論スタニスラフスキー・システムはアメリカに渡り、
リー・ストラスバーグらが結成した「グループシアター」でアメリカ演劇の中で開花していきます。
さらにグループシアターは大きくなり、そこからさらに解釈の違いから3つに分かれていきます。
■目次
アクターズ・スタジオ

1番有名な、リー・ストラスバーグ、映画監督のエリア・カザンらが創設した「アクターズ・スタジオ」
ステラ・アドラー演技スタジオ

そしてグループシアターの女優でもあったステラ・アドラーの「ステラ・アドラー演技スタジオ」
マイズナー・テクニック

さらにグループシアターの俳優だったサンフォード・マイズナーが1935年から参加した「ネイバーフッド・プレイハウス俳優養成学校」で「マイズナー・テクニック」を確立していきます。
メソッド演技方法といえば、リーストラスバーグのアクターズ・スタジオ出身の俳優が取り上げられることが多いのですが、
3つの分派は少しつづ違います。
しかし基盤となるスタニスラフスキー・システムは一緒なので、メソッド演技法を語るときには混在して紹介されることがほとんです。
この記事でもわかりやすく、今回はメソッド演技法で統一したいとおもいます。
では、さっそくハリウッドの演技方法を根底から覆した俳優たちを見ていきましょう。
マーロン・ブランド

1924年生まれ。
メソッド演技を世に広めた第一人者といえば、
1951年マーロン・ブランド主演「欲望という名の電車」での演技です。
アクターズ・スタジオの創設者の一人エリア・カザン監督の作品ということもあり、
メソッド演技といえばマーロンと欲望という名の電車とアクターズ・スタジオの名が結びつけられて今でも語られます。
しかしマーロン・ブランドの最初の演技の師匠は、
のちに演技スタジオを創設するアメリカの女優ステラ・アドラーです。
スタニスラフスキー本人に唯一演技法指導してもらったことのあるステラ・アドラーは、
元々はリー・ストラスバーグの元で演技法を勉強していましたが途中で袂を分つことになります。
彼女に師事したことが、彼の演技のきっかけなのはとても重要なことです。
マーロン・ブランド本人も、リー・ストラスバーグのメソッド演技法には否定的な意見を持っていました。
ちなみにマーロン・ブランドは1972年「ゴッドファーザー」でトップ俳優として返り咲き、
ほとんど自身では映画に出演しなかったリー・ストラスバーグは「ゴッドファーザーPART II」でアカデミー助演男優賞ノミネートされます。
ジェームズ・ディーン

1931年生まれ。
マーロン・ブランドに続きメソッド演技法を世に知らしめた俳優といえば、
アクターズ・スタジオ出身のジェームズ・ディーンです。
1955年エリア・カザン監督作品「エデンの東」で初主演すると、
その迫真の演技でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされます。
しかし同年に自動車事故で亡くなり、伝説の俳優はその後の映画・俳優だけでなく
ファッション、ロック音楽などに多大なインパクトをもたらし、
今もたくさんの人々に影響を与え続けています。
ポール・ニューマン

1925年生まれ。
アクターズ・スタジオ出身。
メソッド演技法をもちいたマーロン・ブランド、ジェームズ・ディーンの演技はすぐに認められましたが、
ポール・ニューマンのデビューはほろ苦いものでした。
「エデンの東」にも出演予定でしたが、監督のエリア・カザンに拒否されてしまいます。
転機は皮肉にもジェームズ・ディーンが主演予定だった
1956年「傷だらけの栄光」での主演でした。
その後も数々の名作に主演し、息の長い成功した映画俳優の一人になりました。
マリリン・モンロー

1926年生まれ。
マリリン・モンローといえば、
グラマラスでセクシーなイメージを誰もが持っているとおもいます。
そんな映画スタジオや世間の見た目だけで判断されるのを嫌い、1955年にアクターズ・スタジオでメソッド演技法を学びます。
創設者の一人、リー・ストラスバーグとは家族のような存在となり、
妻のポーラとは親友、娘で女優のスーザン・ストラスバーグとは姉妹・ライバル・友人という愛憎半ばする存在となっていきます。
マリリンの晩年にとってメソッド演技法はとても重要なキーワードになっています。良い方にも悪い方にも。

グレゴリー・ペック

1916年生まれ。
サンフォード・マイズナーが教師に入りたての頃、
ネイバーフッド・プレイハウス俳優養成学校で演技を学んでいます。
数々の傑作西部劇・「ローマの休日」の新聞記者、アカデミー賞主演男優賞の「アラバマ物語」
ホラーファンには「オーメン」、カルト映画「ブラジルから来た少年」などのジャンルや役柄にこだわらない幅広い演技。
主演を張るこの年代の男優でこれほどの作品に出続けた人はほとんど見ることはありません。
大学時代に養成学校に通うためにたくさんのアルバイトをこなしたことも理由でしょうが、
メソッド演技法を学んだことがかなり影響を与えたことは間違いないでしょう。
スティーブ・マックイーン

1930年生まれ。
海兵隊除隊後、マックイーンは1952年にネイバーフッド・プレイハウス俳優養成学校で演技を学びます。
さらにステラ・アドラーの学校にも通っています。
キング・オブ・クール、アンチヒーローの象徴であるマックイーンもメソッド演技法の中で生まれた俳優でした。
アル・パチーノ

1940年生まれ。
ニューヨークで数々のアルバイト生活を続けていたアル・パチーノは26歳になって、アクターズ・スタジオで演技を学びます。
映画デビューも遅く、出世作の「ゴッドファーザー」公開年には32歳と遅咲きの俳優です。
その後も今でも黒人ギャングたちのバイブル「スカーフェイス」、「狼たちの午後」「セルピコ」「クルージング」などの衝撃的な作品に主演しました。
2020年以降も現役でまだまだエネルギッシュな演技を見せつけています。
ダスティン・ホフマン

1937年生まれ。
以前からも演劇は学んでいましたが、アクターズ・スタジオで才能が開花。
30歳で映画デビューすると、同年には初主演の「卒業」で一気にスターとなります。
アメリカンニューシネマを代表する俳優。
ロバート・デ・ニーロ

1943年。
最初はステラー・アドラーの学校で学び、その後アクターズ・スタジオにも通いました。
「タクシードライバー」では実際にニューヨークで運転手の仕事に就き、
「レイジング・ブル」では現役ボクサーの鍛え上げられた肉体と、
引退後の太った体型を体重差20キロ以上の差がある同一人物を演じました。
そのような撮影前のストイックな役作りや、憑依したかのような演技はデ・ニーロ・アプローチと呼ばれるまでになりました。
ジャック・ニコルソン

1937年生まれ。
アクターズ・スタジオで演技を学びました。
段々と狂気を帯びる小説家の「シャイニング」
精神病院からの自由を勝ち取るために闘う「カッコーの巣の上で」
など数々の彼にしか演じられないキャラクターはメソッド演技法が支えています。
ジェームズ・コバーン
1928年生まれ。
軍を除隊後にステラ・アドラーの演劇学校で学びました。
「荒野の七人」「大脱走」では同じくメソッド演技を学んだ、スティーブ・マックイーンと共演しました。
マーティン・シーン

1940年生まれ。
両親の反対を押し切ってニューヨークに渡り、
ステラ・アドラーの演劇学校で学びました。
「地獄の黙示録」のウィラード大尉の演技で注目されました。
元々ウィラード大尉は、同じくメソッド演技を学んだハーヴェイ・カイテルが演じる予定でした。
ジェーン・フォンダ

1937年生まれ。
名優ヘンリー・フォンダの娘。
アクターズ・スタジオで演技を学びました。
ジーン・ハックマン

1930年生まれ。
アクターズ・スタジオで演技を学びました。
同じくメソッド演技法を学んでいた、ダスティン・ホフマンと一時期ルームメイトでした。
なかなか芽が出ずにくすぶっていましたが、「俺たちに明日はない」でクラウドの兄バック役
さらには主演をつとめた「フレンチ・コネクション」でスターダムに躍り出ました。
(@byebyeamaryllis)